自己紹介
名前 | 山城 正弥 |
出身地 | 沖縄 |
好きな食べ物 | お肉・お魚 |
趣味 | ボルダリング |
好きな言葉 | ゆいまーる |
好きなこと | 人の痛みをとる・心からのありがとう |
初めに
まずは整体院ゆいまーるのHPに来ていただき有難うございます。
当店のHPを見つけてクリックして頂いたという事は何かしら身体の不調を良くしたいという想いがあった上で「どこがいいのだろう」「施術する人はどんな人なんだろう」そのようなお悩みがあると思います。
このページでは整体院ゆいまーるの店長山城正弥の過去を書き、施術への想い、人柄、どんな考えなのかを知って頂ければ幸いです。
少し長くなりますが興味を持っていただけた方が居れば嬉しいです。
店長 山城正弥について
私は沖縄で生まれ沖縄で育ちました。
学生の頃から働くのが好きで高校生の頃から3年間ずっとバイトし高校を卒業してもすぐに就職しガムシャラに働き今を思えば凄い頑張っていたと思います。
高校を卒業し就職した仕事は肉体労働、休みは月に5回、出勤は朝6時、仕事が終わって自宅に着くのが平均夜8時、時には10時や日付が超えることが度々あり、働くことが好きな私も「なぜこんなに働いてるんだろう」と正直メンタルも身体も衰弱。
肌は真っ赤になり、足は力が入らない状態がつづきそこで私は思いました。
「どうせ働くなら自分の好きなことを仕事にしよう」と。
それから「自分が好きなものって何だろう」と考えるようになり悩んでいたところ、ある日知人から「俺の兄弟鍼灸で開業してるけど儲かるみたいよ」とお話を聞くことが出来ました。
私はその話を聞いて「鍼灸って面白そう、元々親のマッサージも好きだし、お金も稼ぎたい、そうだ鍼灸師を目指そう」と思い鍼灸師の学校へ入学を決意しました。
正直その時の自分はこの仕事を舐めておりただの子供だったんだなと今になって思います。
そこから会社を退職し1年余りフリーターの期間を経て次の年、無事鍼灸の学校へ入学することが出来ました。
しかしいざ入学し教科書が配布されページを開いた瞬間、あまりの内容の難しさに私はそっとページを閉じました。やっぱり鍼灸師というものを舐めてたんですよね。あの時の自分を殴りたいと今でも思います。
学校に入学してなんだかんだ1年が経ち無事単位もとり2年生の頃夏休みを迎えた時、私はアルバイトでピザのデリバリーをしていたのですがバイト先のバイクで事故に遭い右足を骨折しました。
とても痛かったのを覚えています。
しかし一番辛かったのはその後で今まで普通に歩けてたのが歩けない、やりたいことが出来ない。
痛みより身体が思うように動かない、それが一番苦痛でした。
トイレに行くのも台所に行くのも苦痛で急に一人ぼっちの世界になったかのような気分になりました。
そこから2か月が経ちギブスも取れ無事歩けるようにはなりました。
しかしここで問題が、お医者さん曰く骨はくっついてるし経過は順調との事でしたが、10分程度歩いていると足に染みるような立っていられないような痛みがずっとあり病院に行っても原因不明との事。
この時が21歳ぐらいの時で「このまま歩けないのかな」と思い怖かったのを覚えています。
もう藁にもすがる思いで整骨院や紹介で色々な先生の所に行き痛みが引かない期間が半年ほど続き、そんな時ある整体の先生に出会い症状は急激に良くなる事が出来ました。
その治療は自費診療で2万円、当時の学生の自分には高額でしたが「歩きたい」その一心で施術を受けたのを覚えています。
お陰で長時間歩いても平気になり、無事元の生活に戻ることが出来ました。感動したのを今でも覚えています。そこに数回通っていると他の患者さんと会うこともあります。
驚愕したのがそこには全身リウマチで座ることも出来ない、歩けない、時には癌を患った方も来ていました。
病院では治らないと言われた難病を患っている方や、余命を宣告された方、様々な方がおり「こんな人たちどうしようもないじゃん。」私は思ってました。
しかし半年後またそちらの方にお邪魔するとそこにはあの時目にしていたリウマチで座ることもできなかった人がソファーに座って「運転するとまだ関節に痛みがあるんだよね」と苦笑いで喋ってました。
いやいやいや、こんな変わるものなのかと、何がどうなったんだと。座るのさえきつそうにしていた方が車を運転しているんですよ。
全ての方がそうなるとは言えないでしょうが明らかに難病と呼ばれ病院でも良くならなかった方がこの半年間という短い間で劇的に良くなっていたのです。凄すぎて笑いました。
そこから私は鍼灸師、治療家として「この仕事はこんなにも凄いものなのかと、私もそんな先生になりたい」という想いが芽生え、そこからは勉強の毎日でした。
無事卒業、沖縄から東京へ
勉強のかいあって無事国家試験にも受かり東京の方で就職が決まりそのまま上京することが出来ました。
その時の記憶は「寒い」の一言に尽きました。
住まいは江東区、木造のアパート、時期は3月頃でしたが沖縄の気温しか知らない私はずっと布団を被ってました。
そして肝心の仕事です、同じ区の江東区にある整骨院に努めましたが研修期間中の3か月間は、朝6時から研修、帰るのは18時、研修期間が終わっても8時半に勤務先の整骨院に行き休憩は1時間取れる時もあれば30分程度が普通、帰りは22時、23時は普通でした。
休みは月6日、給料も生活費を除けば残るのは雀の涙ほど、楽しかったけど辛く、頭皮からつま先まで蕁麻疹がでたり体調不良が続いたり、それでも勉強の為と思い2年間頑張りましたが生活の為転職を決意、東京3年目には大手の整骨院に移り働いていました。
給料と待遇をみて転職した二社目の整骨院でしたが、そこで待っていたのは、整骨院という名のビジネスでした。
もちろん私たちもお金がないと食っていけません。
しかしその会社で学ぶことは人を治す技術よりも如何に商品を売るか、売り上げを上げるか、この1点でした。
生活の為に入った会社でしたが毎日来る患者様、変わらない症状、同じことの繰り返し、正直うんざりでした。
お陰で人並みの生活や体調は整い感謝はしているのですが私が目指す治療家という職業とは離れており、そんな時運命ともいえる出会いがありました。
整体院ゆいまーる誕生まで
もう自分がやりたい事をやるには自分でやるしかないと自分のお店を持つことを考え、2022年12月、物件の内見を4件申し込んだ所、内見可能な物件が1件しか無くまずは申し込み、返事を待っていると「お待ちしてます」と承諾を得、無事内見の日が決まり当日を迎えることが出来ました。
正直不安でした。
「どんな人たちなんだろう」「お店を作ったとしてやっていけるのかな」
不安を抱えつつ現場に行くと不動産の方が2人、1人は30代男性、1人は50代男性の方。色々な不安はありましたがお二人とも人柄がよく少しずつ緊張がほぐれてたわいもない世間話なども出来るようになってきたとき50代の男性から一言、
「実は私、先月五十肩をしてしまいこういうのも治りますか?」
と言われて私はつい、
「今治しましょうか?」
といいその場30秒ぐらいでパッと肩を上がるようにしました。
そうするとその方は大変驚いて言っていただいたお言葉が「山城さん応援するので是非うちで借りてください」と言っていただきその場で申し込み用紙に必要事項を記入し申し込みをしました。
不安を吹き飛ばすかのようにパパっと決まってしまいました。
本当に縁というか運命というか、不思議な事もありますね。
それからその不動産の方や友人、家族、様々な方の助けを借り無事「整体院ゆいまーる」が誕生しました。
ゆいまーるとは沖縄で繋がりを表す言葉です。
言葉の通り皆様、人との繋がりを大事に、また様々な方と繋がれたからこそ出来たお店です。
ぜひ皆様と人として、治療家として繋がらせて頂ける事を願っております。
整体院ゆいまーるの目標
まず山城個人の想いではありますが私は全ての人が「やりたい事をやればいい」と思っています。
言葉だけとるのであれば抽象的かもしれませんが、皆それぞれやりたい事があると思います。
例えば私は今でこそ明るい親しみやすい人柄と言われたりしますが学生時代内気な性格のせいで思うように発言が出来なかったり行動できなかったりしました。
身体的には骨折のせいで歩きたいのに歩けない、動きたいのに動けないなど「やりたい事が出来なかった」のです。
精神的にも肉体的も「やりたい事をできない」のは本当に苦しいんです。
多くを望んでいるわけではありません。
ただ「やりたい事をやりたい」だけなんです。そこに年齢も男女も関係ないと思います。
私は仕事上身体に携わる仕事をしています。この仕事が好きです。
しかし想いは全ての人が「やりたい事をやればいい」という想いで仕事をさせていただいています。
その為に勉強、時間、お金、労力惜しみません。
長くなりましたがゆいまーるの目標とは「全ての人がやりたい事を出来る」ようになる事。
高い所にある物をとりたい、痛みがない身体を手に入れたい、歩きたい、姿勢を治して綺麗になりたい、なりたい自分になりその結果自分のやりたい事が出来る身体を手に入れる。
その為に私が出来ることはまずは結果で応える事です。
もしこの記事を最後まで読んで頂いた方、皆様が痛みや不調、身体のせいでやりたい事が思うように出来ないのであればあなたが「やりたい事を出来る」ようになり健康で笑顔の溢れる生活を送れるように全力でお手伝いさせて頂けると大変嬉しく思います。
改めてゆいまーるとは沖縄の言葉で人と人との繋がりを表す言葉です。
そこには男女も年齢も関係ありません。
施術を通して皆様を人と人として繋がれたら幸いです。
最後まで有難うございました^^