自己紹介
名前 | 山城 正弥 |
出身地 | 沖縄 |
好きな食べ物 | お肉・お魚 |
趣味 | ボルダリング |
好きな言葉 | ゆいまーる |
好きなこと | 人の痛みをとる・心からのありがとう |
店長 山城正弥について
私は沖縄で生まれ沖縄で育ちました。
学生の頃から働くのが好きで高校生の頃から3年間ずっとバイトし高校を卒業してもすぐに就職しガムシャラに働き今を思えば凄い頑張っていたと思います。
高校を卒業し就職した仕事は肉体労働、休みは月に5回、出勤は朝6時、仕事が終わって自宅に着くのが平均夜8時、時には10時や日付が超えることが度々あり、働くことが好きな私も「なぜこんなに働いてるんだろう」と正直メンタルも身体も衰弱。
肌は真っ赤になり、足は力が入らない状態がつづきそこで私は思いました。「どうせ働くなら自分の好きなことを仕事にしよう」と。
それから「自分が好きなものって何だろう」と考え、ある日知人から「俺の兄弟鍼灸で開業してるけど儲かるみたいよ」とお話を聞き、「鍼灸って面白そう、元々親のマッサージも好きだし、お金も稼ぎたい、そうだ鍼灸師を目指そう」と思い会社を退職し鍼灸師の学校へ入学を決意しました。正直その時の自分はこの仕事を舐めておりただの子供だったんだなと今になって思います。
時が経ち次の年、無事鍼灸の学校へ入学することが出来ました。
しかしいざ入学し教科書が配布されページを開いた瞬間、あまりの内容の難しさにそっとページを閉じました。やっぱり鍼灸師というものを舐めてたんですよね。あの時の自分を殴りたいと今でも思います。
そこからなんだかんだ1年が経ち無事単位もとり2年生の頃夏休みを迎えた時、アルバイトでピザのデリバリーをしていたのですがバイト先のバイクで事故に遭い右足を骨折しました。
とても痛かったです。しかし一番辛かったのはその後、今まで普通に歩けてたのが歩けない、やりたいことが出来ない。
痛みより身体が思うように動かない、それが一番苦痛でした。
トイレに行くのも台所に行くのも苦痛で急に一人ぼっちの世界になったかのような気分になりました。
そこから2か月が経ちギブスも取れ無事歩けるようにはなりました。
しかし、10分程度歩いていると足に染みるような立っていられないような痛みがずっとあり病院に行くと原因不明との事で泣きそうでした。
もう藁にもすがる思いで整骨院や紹介で色々な先生の所に行き、そんな時ある先生に出会い症状は急激に良くなる事が出来ました。
その治療は自費診療で2万円、当時の自分には高額でしたがお陰で長時間歩いても平気になり無事元の生活に戻ることが出来ました。
感動したのを今でも覚えています。そこに数回通っていると他の患者さんと会うこともあります。
驚愕したのがそこには全身リウマチで座ることも出来ない、歩けない、時には癌を患った方も来ていました。
病院では治らないと言われた難病を患っている方や、余命を宣告された方、様々な方がおり「こんな人たちどうしようもないじゃん。」私は思ってました。
半年後またそちらの方にお邪魔するとそこにはあの時目にしていたリウマチで座ることもできなかった人がソファーに座って「運転するとまだ関節に痛みがあるんだよね」と苦笑いで喋ってました。
いやいやいや、こんな変わるものなのかと、何がどうなったんだと。全ての方がそうなるとは言えないでしょうが明らかに難病と呼ばれ病院でも良くならなかった方がこの半年間という短い間で劇的に良くなっていたのです。凄すぎて笑いました。
そこから私は鍼灸師、治療家として「この仕事はこんなにも凄いものなのかと、私もそんな先生になりたい」という想いが芽生え、そこからは勉強の毎日でした。
無事卒業、沖縄から東京へ
勉強のかいあって無事試験にも受かり東京の方で就職が決まりそのまま上京し、その時の記憶は「寒い」の一言に尽きました。
住まいは江東区、木造のアパート、時期は3月頃でしたが沖縄の気温しか知らない私はずっと布団を被ってました。
そして肝心の仕事です、同じ区の江東区にある整骨院に努めましたが最初の3か月間は、朝6時から研修、帰るのは18時、研修期間が終わっても8時半に勤務先の整骨院に行き、帰りは22時、23時は普通でした。
休みは月6日、給料も生活費を除けば残るのは雀の涙ほど、楽しかったけど辛く、頭皮からつま先まで蕁麻疹がでたり体調不良が続いたり、それでも勉強の為と思い2年間頑張りましたが生活の為転職を決意、東京3年目には大手の整骨院に移り働いていました。
転職した二社目の整骨院、そこで待っていたのは、整骨院という名のビジネスでした。
もちろん私たちもお金がないと食っていけません。
しかしその会社で学ぶことは人を治す技術よりも如何に商品を売るか、売り上げを上げるか、この1点でした。
生活の為に入った会社でしたが毎日来る患者様、変わらない症状、同じことの繰り返し、正直うんざりでした。
お陰で人並みの生活や体調は整い感謝はしているのですが私が目指す治療家という職業とは離れており、そんな時運命ともいえる出会いがありました。
整体院ゆいまーる誕生まで
もう自分がやりたい事をやるには自分でやるしかないと自分のお店を持つことを考え、2022年12月、物件の内見を4件申し込んだ所、内見可能な物件が1件しか無くまずは申し込み、返事を待っていると「お待ちしてます」と承諾を得、無事内見の日が決まり当日を迎えました。
正直不安を抱えつつ現場に行くと不動産の方が2人、1人は30代男性、1人は50代男性の方が対応して頂き、早速挨拶を終え内見、世間話も交えながら、お互い打ち解けて来たところ50代男性の方からある一言が、「実は私、先月五十肩をしてしまいこういうのも治りますか?」と言われ私はつい「今治しましょうか?」といいその場30秒ぐらいでパッと肩を上がるようにしました。
そうするとその方は大変驚いて言っていただいたお言葉が「山城さん応援するので是非うちで借りてください」と言っていただきその場で申し込み用紙に必要事項を記入し申し込みをしました。
本当に縁というか運命というか、不思議な事もありますね。
それからその不動産の方や様々な方の助けを借り無事「整体院ゆいまーる」が誕生しました。
ゆいまーるとは沖縄で繋がりを表す言葉です。言葉の通り皆様、人との繋がりを大事に、また様々な方と繋がれたからこそ出来たお店です。
ぜひ皆様と人として、治療家として繋がらせて頂ける事を願っております。
ゆいまーるの目標
まず山城個人の想いではありますが私は全ての人が「やりたい事をやればいい」と思っています。言葉だけとるのであれば抽象的かもしれませんが、皆それぞれやりたい事があると思います。私は学生時代内気な性格のせいで思うように発言が出来なかったり行動できなかったりしました。
身体的には骨折のせいで歩きたいのに歩けない、動きたいのに動けない、色々ありますが「やりたい事が出来なかった」のです。
精神的にも肉体的も「やりたい事をできない」のは本当に苦しいんです。
多くを望んでいるわけではありません。ただ「やりたい事をやりたい」だけなんです。そこに年齢も男女も関係ないと思います。
私は仕事上身体に携わる仕事をしています。この仕事が好きです。
しかし想いは全ての人が「やりたい事をやればいい」という想いで仕事をさせていただいています。
その為に勉強、時間、お金、労力惜しみません。
長くなりましたがゆいまーるの目標とは「全ての人がやりたい事を出来る」ようになる事。高い所にある物をとりたい、痛みがない身体を手に入れたい、歩きたい、姿勢を治して綺麗になりたい、なりたい自分になりその結果自分のやりたい事が出来る身体を手に入れる。
その為にまずは結果で応える事です。
もしこれを読んで頂いている方、皆様が痛みや不調、身体のせいでやりたい事が思うように出来ないのであればあなたが「やりたい事を出来る」ようになり健康で笑顔の溢れる生活を送れるように全力でお手伝いさせて頂けると大変嬉しく思います。
整体院ゆいまーるのコンセプト
ここまで長い紹介文を読んで頂き有難うございます。長々と自分の想いやこれまでの出来事をまとめて書いて行きましたが整体院ゆいまーるのお店としてのコンセプトは「お客様に最高の満足を」をスローガンにかがげています。
上記に書いたように痛みや不調でお困りの方はもちろん、男性女性ともに美しくいたい、肌の張りを保ちたい、ほうれい線を何とかしたいなど健康面、美容面両方をケアしたいなどお客様の要望に応えられるメニューを揃え、身体の辛い方、きれいになりたい方、幅広い年齢層の方にご満足いただけるようなお店を作っていきます。
良ければこの記事を読んでいる貴方と、人として、施術家として繋がれたら有難く思います。
最後まで有難うございました。